小学校

2年生

1年の担任よりはましだった。

お弁当を忘れて、おにぎりをくれた。

引きつけを起こした時も、一緒に付き添ってくれた。

そういえば、父親がなくなる前も、引きつけを起こしたんだった。

なんだったんだろう?

成長するにつれて、引きつけは起こさなくなったけど。

 

1年生

実の父親がなくなってすぐの年。

母子家庭が珍しい時代だ。

生活保護を受けていて、私の給食費の袋に1年分、ハンコが押されてあった。

担任も結構嫌なやつ。

母は、生活保護を断った。

そして、工場で働き始めた。

私は、学校が終わった後、祖父の家にいることになった。

そのころは、今と違って「学童保育」なんてものはなかったから。

母、再婚する

母は、私が小学校3年生になった、2学期に再婚をした。

伯母(母の姉、現在絶好中)から、「新しいお父さんほしい?お母さんが、ほかの人と結婚してもいい?」と聞かれて、「うん、新しいお父さんが欲しい」と答えたのは、しっかりと覚えている。

義理の父は、母よりも随分年が上に見えた。

朝仕事に出かけて、夜になると帰ってくる。

母は、父と再婚したのでもう働く必要はなくなった。

母が家にいるので、私も祖父の家に行く必要がなくなった。

母が再婚する少し前に、ひいおばあさんが亡くなった。

祖父が亡くなったのは、私が6年生の時だった。

母のところへ親戚のおばさんたちが交代で泊まって、祖父の看病をした。

私もお見舞いに行きたかったのだけど、「あんたは行かなくていい」と言われていた。

私が「斜視」だったので、母は、世間体を考えて、私をなるべく人前に出さないようにしていた。

学校は「義務教育」だったから、仕方なしに行かせていたんだろう。

今だったら、家に閉じ込められて、虐待死していたかも?

義理の父は、私の眼のことなど気にはかけていなかった。

母に一目ぼれしたらしい。「子供がいてもかまわない、おれと結婚してほしい」といったらしいから。

母親が再婚したので、私に(父親の違う)きょうだいができる可能性もあったのだが、母は産まなかった。

 

母子家庭時代

父親がいない、母親と子どもだけの世帯を「母子家庭」と呼ぶ。

母は、私を抱えて暮らさなくてはならなくなった。

母の姉(叔母)のお下がりの服を着ていただけなのに、「派手な服を着て」と陰口をたたかれたそうだ。

「何をして生活しとるだん」とおせっかいな人から言われたり。

借家の大家からは「母子寮にでも入ったらどうだ」とまで言われたとか。

亡くなった父は、酒が入っていないときはとてもまじめに働く人だったので、亡くなった後、私と母には「遺族年金」が支払われた。母が再婚するまでは、私と母の二人に、母の再婚後私が18歳の誕生日を迎えるまでは、私に。

当時は、今と違って、母子家庭も未亡人もバツイチも珍しい時代だった。

生活保護家庭は、肩身の狭い思いをしていた。

母は世間の人から冷たい視線と、言葉を浴びせられて、心を病み始めたのだろう。

母は普通の体だったが、父親はアルコール依存症だったので、二人の間に生まれた私は、生まれつき「斜視」という障害を持っていた。

もっとも、「障害者」と認定されていたわけではない。

私は、今では疑っているのだが、自分自身のことを、ほんの少し「知的障害あり」または「自閉症」のようなものもあるのではないかと思っている。

とにかく、再婚するまでの母は、私にはとても厳しかったし、怖い人だった。

母と過ごす時間よりも、祖父と過ごす時間の方が楽しかった。

祖父も祖母が亡くなってから、再婚をしていた。

私にとっては義理の「おばあちゃん」ということになるのだが、「おばあちゃん」ではなく「おばちゃん」と呼んでいた。

おばあちゃんは祖父のところにいた。(ほんとうは「ひいおばあちゃん」で、祖父の「母」である)。

斜視であっても、相手が年をとっているか若いか、祖父の家に年をとっていない義理のおばあちゃんがいる理由は、大人たちの話を聞いて子どもなりに理解できていた。

だから、「知的障害あり」とまではいかないんだろう。

ただし、自閉症は、まだ可能性としては残っている。

学校が終わった後、祖父の家に行くのが楽しみだった。

祖父は私と遊んでくれたわけではないが、カルガモの雛のように私がくっついて歩いても、嫌がらなかった。

友達と遊んでもらえないと、私が泣いて祖父のところへ戻ったら、「どうして仲間外れにするんだ」と本気で怒りに行ってくれた。

ずっと、学校の帰りにおじいちゃんの家に行けるものだと信じていた。

 

 

 

 

小学校入学1年前

来年は小学校へ入学という5月に、父親が亡くなった。

最初は何があったのかよくわからなかった。

風呂場の前で、母がハンカチを手に、泣いていた。

医者が呼ばれ、「ご臨終です」といった。

母が泣いているので、私もつられて泣いたのを覚えている。

たくさんの人が家にやってきた。

父親が死んでしまったことをはっきりと理解したわけではなかった。

親戚の人に、「いつ帰ってくるの?」と聞いたらしいから。