母子家庭時代

父親がいない、母親と子どもだけの世帯を「母子家庭」と呼ぶ。

母は、私を抱えて暮らさなくてはならなくなった。

母の姉(叔母)のお下がりの服を着ていただけなのに、「派手な服を着て」と陰口をたたかれたそうだ。

「何をして生活しとるだん」とおせっかいな人から言われたり。

借家の大家からは「母子寮にでも入ったらどうだ」とまで言われたとか。

亡くなった父は、酒が入っていないときはとてもまじめに働く人だったので、亡くなった後、私と母には「遺族年金」が支払われた。母が再婚するまでは、私と母の二人に、母の再婚後私が18歳の誕生日を迎えるまでは、私に。

当時は、今と違って、母子家庭も未亡人もバツイチも珍しい時代だった。

生活保護家庭は、肩身の狭い思いをしていた。

母は世間の人から冷たい視線と、言葉を浴びせられて、心を病み始めたのだろう。

母は普通の体だったが、父親はアルコール依存症だったので、二人の間に生まれた私は、生まれつき「斜視」という障害を持っていた。

もっとも、「障害者」と認定されていたわけではない。

私は、今では疑っているのだが、自分自身のことを、ほんの少し「知的障害あり」または「自閉症」のようなものもあるのではないかと思っている。

とにかく、再婚するまでの母は、私にはとても厳しかったし、怖い人だった。

母と過ごす時間よりも、祖父と過ごす時間の方が楽しかった。

祖父も祖母が亡くなってから、再婚をしていた。

私にとっては義理の「おばあちゃん」ということになるのだが、「おばあちゃん」ではなく「おばちゃん」と呼んでいた。

おばあちゃんは祖父のところにいた。(ほんとうは「ひいおばあちゃん」で、祖父の「母」である)。

斜視であっても、相手が年をとっているか若いか、祖父の家に年をとっていない義理のおばあちゃんがいる理由は、大人たちの話を聞いて子どもなりに理解できていた。

だから、「知的障害あり」とまではいかないんだろう。

ただし、自閉症は、まだ可能性としては残っている。

学校が終わった後、祖父の家に行くのが楽しみだった。

祖父は私と遊んでくれたわけではないが、カルガモの雛のように私がくっついて歩いても、嫌がらなかった。

友達と遊んでもらえないと、私が泣いて祖父のところへ戻ったら、「どうして仲間外れにするんだ」と本気で怒りに行ってくれた。

ずっと、学校の帰りにおじいちゃんの家に行けるものだと信じていた。