犬を愛するということ

4年たった今、ジャッキーは、私にとって、いや私たち家族にとってはかけがえのない存在となっている。

犬にとって一番いやなことそれは、「孤独」なんだと思う。

私が、勤めに出ることをやめ、家にいることを選択したのは、犬(ジャッキー)にさびしい思いをさせたくなかったから。

もちろん、ほんの数時間であれば留守番もできるから、いつも一緒にいるわけではない。

それに、家にいても、インターネットが普及している現在では、「在宅ワーク」という選択肢もある。

昨年の「リーマンショック」以来、仕事が見つからない人、あぶれている人は、あふれている。

正社員の内定をもらった学生ですら、「内定取り消し」もしくは「自宅待機」を強いられたという。

果たして「パート」の仕事が見つかるかどうか。

私は、勤めに出るとしても「正社員」になるつもりはないし、「派遣社員」にもなるつもりもない。

なるなら、「パート社員」と思っている。

「正社員」だと、残業もしないといけないし、残業までは行かなくても、時間になったらさっさと片付けて帰るというわけにも行かない(過去の経験から)。

「派遣社員」だと、景気が悪くなれば、即「きられる」のが、この立場の人だから。

「パート」のほうが、時間の余裕ができる。

私が考えているのは、「土・日・祝日」勤務の仕事。

今は、取りたい資格もあるので、勤めるとしても等分先の話だけれど。

さて、ジャッキーのことだけど、私が家にいるようになってからは、いろいろなことを覚えたり、表情も穏やかで、無駄吠えも減った。

散歩も、2歳くらいまでの頃と比較すると、とても楽になった。

今みたいに楽な時期になっても、大きな犬が「苦手」もしくは「犬を飼ったことのない人」からは、「大変だね」といわれることもある。

もっと大変なときもあったのに、今のこの状態を「大変」と思う人には、犬は飼えないだろうね。

犬が苦手なら話しかけなければいいのに、余計なことを言われて、こちらが不愉快になるだけだから。

最近は、余計なことを言いそうな人には、あえて目を合わせないようにしている。

ジャッキーが、暑さでくたびれて、へたれても、誰かが近づいてきたら、とりあえず少し歩かせるとか。

相手に話しかける隙を与えないようにしている。

犬好きな人が話しかけてきたり、ジャッキーの頭をなでてくれるのは、大歓迎だけど。

おせっかいな人に、あれやこれや言われるのは迷惑だ。

まあ、最近は、あえて何も聞こえないふりをしているけれど。

自分が聞きたくないことは、耳に入れないということ。

聞かなかったことにしてしまう。そうすれば、いつまでも引きずることもないだろうから。

大きな犬と散歩していると、ほかに気を使わないといけないことが山ほどあって、おせっかいな人にいちいち付き合っていられない。

犬を愛するということは、犬のすべてを愛するということで、多少散歩で引っ張ろうが、水たまりで遊ぼうが、スリッパを悪さしようが、食事のときにちゃんとハウスで待っていられるようにもなるし、すべてを受け入れて、あまり高望みはしないこと、そうすると、犬も気を許してくれるようになる。

うちの犬は、ごく普通の家庭犬(ペット)で、特別に訓練をしたわけではない。

それでも、時間をかけてじっくり付き合うことで、食事のときはハウスで待機とか、トイレシートの上で用足しをするとか、散歩のときにウンチを片付けているときは、横で静かに座って待っているとか、人や車、自転車、よその犬などに、突進しないとかを覚えた。

もともと、人や犬にほえることはしないジャッキーだ。

体が大きくて、色が黒いという見た目は、犬のことを知らなかったり、苦手な人にとっては、「怖い生き物」でしかないだろうけれど、こちらもそれを承知しているから、できる限り、近づかないように努力をしているので、その努力は認めてほしいのだ。

飼い主にとっては、大きさとかの見た目に関係なく「かわいいわが子(同然)のペット」なのだから。

犬と分かり合えるようになるというのは、時間がかかることだと思う。

いろいろなことを覚えてもらうのも同じように時間がかかることだと思う。

犬は、人の言葉を話すことはできない。短い単語を話す(ようにほえる)ことができる子は確かにいるけれど、それはすべての犬ができるというわけではない。

ただ、犬は人間の言葉を理解することはできる。

ほめればうれしそうな顔をするし、散歩をしているときは、目が輝いている。

退屈そうな顔をすることもあるし、かまってほしくてまとわりついてくることもある。

犬と分かり合えるとそういうちょっとしたことでも飼い主も気づくことができるのだ。

犬(猫その他のペットとされる動物、動物園にいる動物たちも含めて)は、人間と同じ年数を生きられるわけではないし、人間よりも年をとるのが早い動物だ。

多少のおいたには目をつぶって、縁があって我が家に迎えた子達を、溺愛までは行かなくても、ちゃんと最後まで責任を持って飼って、一緒にすごしてあげてほしいと思う。

夫や子どもなど人間の家族を愛するのと同じくらい、愛情を注いで挙げると(一緒にすごす時間を持つとか、話しかけるなど)、それだけで犬(ペットなど)は幸せを感じるものだ。

私には、家から脱走するような飼い方をする人、公園などで平気でノーリードにしている人、もう飼うことができないからと、保護センターへ持ち込んだり、どこかへ置き去りにするような人たちの気持ちが理解できない。

飼い続けたくても、病気だとか年齢的なものだとか、やむにやまれぬ事情ならまだしも、「大きくなって、扱いに困ったから」とか「いうことを聞かない」とか「飽きた」などは、「冗談じゃない、生き物の命を何だと思っているんだ。自分がその立場になったらどんな気持ちになるんだ」といいたい。

生き物を飼うのなら、最後まで飼うことができるかとか、大人になるとどのくらいの大きさになるとかの、事前のリサーチや心構えが必要なのではないかと思う。

犬の性格は、大きさはあまり関係ない。

大きくて大変なのは、散歩かもしれないけれど、好きでその犬種を選ぶのであれば、他人がどうこう言うことではない。

案外慣れてくると、扱うコツを覚えてくるものだし、犬のほうも「学習」して、無理には引っ張らなくなるものだ。

接し方でずいぶん変わるのだということを、ジャッキーを通して理解した。

私の場合は、これだけは覚えてほしい「最低限」のことに重点を絞って、教え込んだ。

後は、「できればいいけど、あえて覚える必要はない」というものは、余裕ができてから「教えた」。

飼い主が余裕をもって接すると、犬のほうも「お、こいつは大丈夫だ」と思うようになる。

今は、自分から、仰向けになって、おなかをなでてあげると、「うっとり」するまでになった。

ほかの家族からあきれられるほど「犬馬鹿」だけどね。