2011年1月

退院後

母は昨年11月末に退院した。

以後、私が毎日母に会いに行っている。

お休みをもらえたのは、年明け後元旦と2日のみだ。

主治医には「投薬治療だけではよくなりません。家族の協力がないと」と言われた。

家族が「犠牲」になれってこと?

もう医者は信用できない。

介護サービスを受けられるようにと、市役所の人間が派遣されてきた。

ヘルパーを受け入れられる人ならば、「うつ病」になどかかるはずがない。

私はそう思っている。

市役所も、介護サービスも、医者も信用できない。

母は「うつ病」になる以前から、もともと生まれつき「わがまま」だ。

もちろん、不満を感じながらも毎日会いに行っている。

いつか限界がくることだろう。

恐ろしいことをしでかす前に、自分で命を絶つまでのこと。

私だって、いつかは老いるだろう。

もちろん母だって。

けれどももしも母が90歳まで生きたら、その時私はいくつなのか?

今の母の年には達しているだろう。

その時、今の母がしていることを、自分も娘たちにするのだろうか?

それだけは嫌だと思う。

母は私がこれほどまでに苦しんでいることを知らない。

毎日布団に寝っ転がりながら、私が来るのを待ち構えていて。

私が来ると、テレビはつけていても音は出さずに、くだらない話を時には人の神経を逆なですることまで、平気で話す。

こちらももう慣れてしまっているので、話は左の耳から右の耳へとそのまま流れていく。

行きさえすれば満足するのだ。たとえ、1時間だろうと30分だろうと。

けれども、毎日行くということは、働きに行くことはできないのだ。

働きに行きさえすれば、ひと月当たり10万円は稼げるというのに。

夫の稼ぎだけで、家のローンや娘たちの学費、結婚資金などどうやってたくわえることができる?

母が援助してくれるのならともかく。

まあ、たとえ援助をしてくれると言われても、断固として断るけれど。

私が母に望むことは、病気の完治ではない。

そんなことには興味はない。

良くなろうが悪くなろうが、そんなことは私にはもうどうでもいいこと。

私が望んでいるのは、私自身がこの先幸せな生活をしていくこと。

母親なら娘の幸せをまず第一に考えてほしい。

それがもう無理なことは分かっているので、私は私の特技を使って、母の今の状態私の追い詰められた心情を文章の形で、世の中に暴露してやろうと思う。

もちろん、実名は使わない。

物語の結末は決めてはいない。

私自身が命を絶つことで終わるのか、母が私の気持ちをくんで、父の死をきちんと受け入れて、叔母や従姉に謝罪し、残りの人生を穏やかに過ごすと誓ってくれるのか。

まあ、私は自分しか信用していないので、母のきもちがこの先どう変わっていくかはわからないけれど、自分のことならばわかる。

平穏な人生で幕を閉じるか、悲しみを抱えて死を選ぶか、その二つしかない。